猫街221b - Football Manager -

ゲーム、本、音楽や映画。そこに日常のささやかなできごとを絡め、物語仕立てに書いています。いまは「Football Manager」というゲームのプレイ日記が中心です。

あちきを離さないで ~Never Let Me Go(後編)

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黒猫さんのくちびる。
そこで生まれた、ちいさなほほえみ。
水面に落ちたしずくのように、ほほえみの波紋が顔のすみずみに広がっていく。

彼女はじつに悠然としていた。
たたずまいは、中世の画家が描く淑女のよう。
ながく見つめていると、その瞳にすいこまれてしまいそうになる。
目をそらし、視線を落とすと、ハートの刺しゅうが見えた。
彼女が身にまとっているのは、ヴィヴィアン・ウエストウッドの黒のカットソー。カルチャーハートの刺しゅうは、その左すそに。

顔を上げると、そこは日本食レストランではない。
いつのまにか、きみたちは猫カフェ「猫毛連盟」にいた。テーブル席に向かいあってすわっている。
猫さんの姿が見えない。
ほかの猫たちもいない。
だれもいない。きみと黒猫さんいがいには。
ここはいつものカフェじゃない、ときみは思う。そっくりだけれど、どこか別のぜんぜんちがう場所だ。
「あなたはなにをそんなにおびえているの?」と黒猫さんはたずねる。「こわがることなんてなにもないのに」
黒猫さんがテーブルのうえになにかを置く。
アップルのiPhone
見たこともないバージョンの。しかもホワイトではなく、ブラック。
こんな世界、リセットしてしまいなさいよ」と黒猫さんはおだやかに言う。「完ぺきじゃない世界なんか、消えちゃえばいいじゃない」

黒猫さんはせつめいする。
この黒いiPhoneを使えばすべてをリセットできること。
記憶や知識はそのままで、過去に戻り、かんとくとして再チャレンジできること。
「こんどはもっとうまく、もっとはやく、もっとスムースに。成功への道をまっすぐ、最短ルートですすむの。すてきだと思わない?」
どうして、ときみは問う。なぜ急にそんなことを?
黒猫さんはおどろいた顔。「あなたがのぞんだから。そうしたいとつよく願ったから」
そんなこと願ってない。
「あなたは失望している。この現状に落胆している。じぶんの生きかたに、じぶんという存在に、こころの奥そこでがっかりしている」
ちがう。
「こんなはずじゃなかった。じぶんはもっとやれたはずなのに。ほんとうはそう思ってる。だからわたしはここにいる。わたしはあなたに呼ばれただけ。あなたが、わたしを、呼んだの」
ちがう、ときみは消え入りそうな声で言う。
「さあ、はいつくばってお願いしなさいな。この世界をこわしてくださいって。チャンスをくださいって」彼女はワイングラスをくるくるとまわす。笑い声。「チャールトンの若手を育てたかったんでしょ。ストークのボヤンも、バルセロナのサンペールも、アトレティコのオリベルも、かんとくとしてその成長を見守りたかったんでしょ。いまのあなたにできる? 買いもどしたり、引き抜いたり。いまのあなたにそれができると本気で思っているわけ?」
いまはむりかもしれない。でも、いつかは――。
「そのころには、かれらはもう若手じゃない」
黒猫さんはiPhoneをきみのほうに押しやる。
「あなたの国の代表チーム、この世界では、ワールドカップの予選で敗退したんですってね。いいの? たのしみにしてたんじゃないの? そんなみらい、そんな『いま』、そんな過去。わたしだったらいらないな」

たてものを出るとき、きみは黒いiPhoneをにぎりしめていた。
わかれぎわに、黒猫さんがiPhoneの電源をいれる。
にぶい駆動音。振動が手のひらにつたわる。
「しばらくのあいだ離さないでね。このあとのことはあなたの猫さんが知っている。わたしはただのきっかけにすぎないから。そういう契約なの」
けいやく?
「おっと、いけない」と黒猫さんはくちもとに肉球をあてる。「ところで、あなた、イシグロの作品は読む?」
……カズオ・イシグロですか。読みますよ。
「どの作品がお好きなの」
きみがこたえる前に、黒猫さんは話をすすめる。
「わたしはね、『わたしたちが孤児だったころ』。読めば読むほど、どんどん不安になるから。こわい話なんて出てこないのだけれど、読み手は身体がふるえるほど追いつめられていく。でもふしぎ。その不安な気持ちをね、手放したくないの。いつのまにか離れられなくなってしまうの。こわいからこそ、不安だからこそ、目が離せなくなる。そういう気持ち、わかる?」
彼女はだれの返事を求めていないのだ。
「イシグロお得意の『信頼できない語り手(unreliable narrator)』ね。あるインタビューで、この作品について聞かれたイシグロは、こうこたえた」

イギリス流に言えば、ゴールポストが変わるわけです…(中略)…試合中にゴールポストが動かされるんです。これはかなり、読んでいて不安になる体験だと思います。
(『ナイン・インタビューズ』柴田元幸 編・訳)

「ああら。あなたのだいすきなフットボールじゃないの! 動かないはずのものが、そこにあると信じるべきものが、しらないあいだに動いているかもしれない。信じてはいけないものに変わっているかもしれない。そもそもゴールなんてはじめからなかったのかもしれない。そのこたえが最後までだれにもわからない。ねえ、ぞくぞくしない?」
なんと言っていいかわからず、きみはだまっている。
黒猫さんは肩をすくめる。「さあ、そろそろさよならしなきゃ」
ちょっと待って。まだ聞きたいことが――。
「わすれないで。すべてはあなた次第だということを」
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猫さんが帰ってきたとき、時計のはりは11時をまわっていた。
きみが手にしたiPhoneを見て、ちいさな生きものはことばを失う。
きみは説明する。
黒猫さんに会ったこと。
過去に戻るよう説得されたこと。
「そんな、はやすぎる……」と猫さんはわからないことを言う。「まさか、それを受け入れてしまったんじゃないよね」
きみはiPhoneがすでに起動されていることを話す。
でも猫さんとの記憶はうしなわないって。猫さんとふたりでやり直せるなら、チャレンジしてみたいと思ったんだ。
「ほかのひとはどうなるの? トニーは、ウィギンスは? 愛里は? きみとおなじ時間をすごした選手やスタッフ、ファンや記者は?」
消えてしまうわけじゃないでしょ。また会えるよ。
「それはもう、あちきたちが知るトニーやウィンギンスじゃない」
おなじだよ。また関係をやり直せばいいだけさ。
「ちがう」
どうして……なんでそんなに反対するんだよ。
「人とひと、人と猫の関係は、そんなにたんじゅんなものじゃない。一瞬いっしゅんで、ほんのちょっとしたことで、結びつきやつながりは変化していく。おなじ人間がいないように、まったくおなじ関係やつながりなんてないんだよ」
きみは頭をかかえる。
うるさいうるさいうるさい。やり直してみたいと思うことのなにがわるいんだよ。失敗とか挫せつとか、むくわれない努力とか。そんなのぜんぶ消えてしまえばいいんだ。
「その『むくわれない努力』のおかげで、あちきはきみとここにいる。失敗して挫せつしたきみだからこそ、あちきたちの関係はあるんだ。きみは過去にもどることに同意したんじゃない。あちきすらそばにいない、まったくちがう別の世界にいくことに同意したんだ」

ながい沈黙のあと、きみは認める。
そうかもしれないね。はじめからなにもかもがうまくいっていたら、猫さんにも出合えなかったかもしれない。ここにきて、いろいろなことがあったよ。ここで、わらったり泣いたりおこったりしたことが、すべてなかったことになってしまうなんて、やっぱりへんだよね。おかしいよね。
きみは黒いiPhoneに目をおとす。
これは黒猫さんにかえすよ。どこに住んでいるのか知らないけど。
「もうおそいにゃ」
iPhoneが、左手からはなれない。
ひふに食いこみ、うでの一部のようになっている。
もはや、電源を切ることすらできない。
「同意して、起動してしまったら、もうとめらないんだ。午前零時、つまり、あと30分でリセットがはじまる」

ひとりといっぴきは、最後の紅茶をいれる。
ゆかに腰をおろし、熱い紅茶を飲みながら、話をする。
猫さんは、できるだけあかるい声。
「黒猫さんが話したことは、半分はほんとうなんだ。ある条件を守るかぎり、あちきのことだけはわすれない。いっしょに過去にいける」
きみは紅茶をすする。iPhoneの振動はどんどんつよくなっていた。
その条件って?
「あちきの手を離さないこと」
うん、離さないよ。ほかには?
「それだけ」
ほんとうに? それくらいならできるよ。
「リセットがはじまると、あちきたちは長いトンネルのような空間をくぐりぬける。そこはおそろしく暗いから、おたがいの顔もすがたも見えなくなる。声ももちろんとどかない。なにもない、からっぽでさみしい場所」
まるでなんども行ったことがあるような口ぶりだね。
猫さんはきみを見る。さびしい笑顔だった。
「きみの右手、あちきの左手。手をつないでいるときの、この感覚、手触り、ぬくもりだけが頼りだ。ぜったいにあちきの手を離していけないよ。離せば、きみはあちきのことをわすれてしまうから」
なにがあっても猫さんのことはわすれないよ。
「わすれてしまうんだ。存在していたことすらわすれてしまう」
わすれない。わすれたくない。
「その場所はね、いろいろな思い出を引き出して、感情を増幅させる。負の感情にはくれぐれも気をつけて。怒りとか、憎しみとか。それに飲み込まれると、手をつないでいる感覚すら失ってしまう。だから、いいかい。トンネルにいるあいだに、なにかに怒ったり、だれかを憎んだりしてはいけないよ。うれしいことだけを考えるんだ」
怒らない。憎まない。
「そうそう」
そして、手を離さない。
「そろそろ時間だにゃ」

手をつないで、立ち上がる。
いまでは、iPhoneの振動と駆動音で、身体ががくがく震えるほど。
だいじょうぶ、ときみはじぶんに言い聞かせる。右手に猫さんの肉球を感じる。やわらくて、温かい。だいじょうぶ。怒らないし、憎まない。ぜったいに手を離さない。
いよいよそのときがくる。
猫さんが泣きそうな顔できみを見る。
「きみに言わなくちゃならないことがあるんだ」
せっぱつまったこえ。もはや叫ばなければなにも聞こえない。
「これが最後かもしれないから話しておきたい。きょうがはじめてじゃないんだよ。もう、なんども、あちきたちは――」
そのしゅんかん、猫さんのすがたが消える。

そこは宇宙空間のような場所。
聞かされていたほど暗くはない。
きみはスティーブン・キング原作のドラマ「ランゴリアーズ」を思いだす。あのドラマで描かれる、異次元をつなぐ裂け目。それがこの場所のイメージ。

猫さん、ぶじかい?
姿はみえない。こえも聞こえない。
でも、たしかに右手で感じる。そこにいることを。
だいじょうぶ。
歩いていける。
あのトンネルのさきへ。

きみはいろいろなことを思い出す。
子ども時代の思い出、両親の顔、ハイドでの面接、猫さんをひろったときのこと。
時系列がめちゃくちゃな記憶のうずのなか、右手に意識を集中させながら前にすすむ。
そこに、ぽっと浮かんだイメージ。
会社で働いていたときの記憶だった。
ちいさな出版社の2階。
きみはある雑誌の編集部ではたらいていた。
看板雑誌ということもあり、会社の規模としては異例の、6人もの編集部員。
ほんの数年だったけれど、いろいろなことがあったなあ。
そう思ったところで、ひとりの社員の顔がうかぶ。
そうそう。ひとつ年上のあのひと。わりと仲がよかったっけ。

仕事以外のはなしもする、数少ない同僚のひとりだった。
ふたりでご飯をたべているシーン。あれはどこだろう。吉祥寺かな。たしか、あのひとのお兄さんがJリーグでプレーしていて、あと5分後にお店にやってくるのだ。まったくのサプライズで。ほら、あと3分、2分……。
そこで場面がきりかわる。
会社のなか。
仕事でのミスをめぐり、きみたちふたりがにらみ合っている。
そうだ。あのときの言いあらそいが原因でふたりの関係は変わってしまったのだ。
そのときに感じた怒りが胸のおくで声をあげる。
じぶんでもおどろくほど、つよく、はげしく。
あのひとは、責任をすべてこちらに押しつけて、じぶんはまるで被害者のようにふるまっていた。
記憶のなか、皆のまえで、きみはののしられていた。
まさかあそこまでひどいことを言われるとは思っていなかった。おどろいて、ショックをうけて、ただ、だまっていた。友だちだと思っていたから。
同僚たちは、口をぽかんとあけて、その様子をながめている。
なんてばかだったのだろう。思いきり、どなりかえしてやればよかったのだ。だれのおかげで仕事がまわっているのか。あのひとがくりかえすミスを、気づかぬふりをして、笑顔でフォローしてやった。何度もなんども。あのときちゃんと言うべきだったのだ。

おまえみたいなやつにえらそうなことを言われるすじあいはない

しまった。
気づいたときはおそかった。
猫さんがいない。
右手はだれともつながっていなかった。左手の黒いiPhoneが怒るように赤く点滅している。
猫さん!

声が出ない。
声が届かない。
あれほど注意されたのに、あれほど約束したのに。
なんでもない、一度きりの口論だったのに。あのひとのことをなつかしく思い出せたはずなのに。
トンネルを抜けたさきは、深いふかい穴だった。
おちていく。身体が、ゆっくりと、しずんでいく。
どこまでもどこまでも。
猫さん!

きみは右手をせいいっぱい伸ばす。
この世界のどこかにいるなら、もしゆるされるのなら、もういちどだけその温かい手にふれたかった。
二度と会えないのだとしても、きちんとさよならを言いたかった。
いまならわかる。
ぼくを世界につなぎとめてくれていたのはきみだった。
きみをとおして世界を見ていた。きみをとおして、本を読み、映画を見て、音楽を聴いた。きみをとおしてフットボールを愛した。きみをとおして毎日があった。
良いことのなかにも悪いことのなかにも、いつもきみがいた。
きみがすべてのはじまりだったのに。

そして、ぼくは猫さんのことをわすれてしまった。

(完)