猫街221b - Football Manager -

ゲーム、本、音楽や映画。そこに日常のささやかなできごとを絡め、物語仕立てに書いています。いまは「Football Manager」というゲームのプレイ日記が中心です。

海だ!山だ!夏休みだよ本音とーく(中)

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江戸川さんは泣いた。
江戸川さんが泣いたのはひさしぶりのことだった。
泣きなれない人がそうであるように、すぐにコントロールを失い、自身の涙にのまれる。
声をつまらせ、しゃくりあげ、涙やらなにやらをだらだらと。
まともなことばに翻訳すると、彼はこんなことを口走っていた。
ぼくね、ひっく、やっとね、ひっく、編集ちょになれたと思ったのにね、むちゃな弾丸出張させられて、へとへちょになるまで走りまわって、ぺぷしっ、やっと一息ついたと思ったらこんなすがたにされちゃって。48歳にもなってなさけなくてなさけなくて……。
「まあまあ」と猫さんはなぐさめる。
いそがしくて家族にもぜんじぇん会えないのに、こぉっく、娘みたいなとしの子にばかにされて、トラとかライオンぢゃなくて猫なんかにおどされて、まじ無理かんべんって感じで、ぶるんぶるんっ。
「どうどう」と愛里。

おちついたあとも、江戸川さんはぶつぶつ言っている。
副編集長のカンパチという男をのろっているようだ。
そもそもあいつがいけないんです。歓送迎会のあと、真夜中に雨のなかで小野正利の「You're the Only…」とか熱唱してカゼひくからぼくが代わりに出張するはめに。
「ふうん」と猫さんは感心する。「ピンチヒッターとはいえ、編集長なのにえらいにゃ。そんなむちゃな出張を引き受けるなんて」
いやいや、たぶん猫さんがイメージしているのは大手の編集長。いすにふんぞりかえってるイメージでしょ。うちみたいな弱小は編集長でもばっちり現場なわけで。
猫さんは魔法の猫じゃらしで江戸川さんの頭をなでる。
「どっちにしてもかわいそうなことをしたにゃ。せめてものおわびです」
たちまちのうちに、江戸川さんのおしりに、かわいらしい猫のしっぽがにょきにょきはえてくる。
「ちょっ」と愛里。「それぜんぜんおわびになってないし」
うれしいなあ、と言って江戸川さんはしっぽを高く上げる。いやー、わたしね、気がちっちゃくて。向かい合って会話してると、こう、うでぐみしたり手をもみもみしたり、落ち着かない感じをごまかすわけですよ。でもこれからは、そのかわりにしっぽを「ぺしぺし」できるわけで。どうです、似合いますか?
ぺしぺし。
「江戸川さんっ、しっかり!」

ああ、原稿料ですか。
そうですね。まあ、ぴんきりですよ。文●●●とか講●●みたいなお高いところもあれば、うちみたいなおやすいところもありますから。雑誌でいうと、N●●●●●とかは400字で7000とか8000はへいきで出しますしね(*フィクションですっ)。
えっ、うち? うちはめっちゃやすいですよ。出版界ひろしといえ、いちおう100人以上の従業員がいる会社のなかで、ここまで出さないところはないんじゃないかという。いや、具体的なすうじはかんべんしてください。こうみえても編集長ですからね。会社はうらぎれな……えっ、言わなきゃがぶりとかむ? ちょっ、ちょっと待って。そうだ。こんな話を知ってますか。
ぺしぺし。
ミステリの翻訳もので有名なある出版社の話です。知ってのとおり、あそこはゆうしゅうな人材が多い会社でして、翻訳書を出すときに翻訳者にお願いするわけだけど、ぶっちゃけ、じっさいは編集者にも訳せちゃうくらいの力量はあるんです。で、その優秀なじんざいが成長して、つぎつぎとやめて独立していくという。翻訳者養成会社とよばれるゆえんですね。で、同じように独立した某有名翻訳家が、あるとき、古巣のその会社に依頼されて――。
あ、いや、ここでひとつ説明しておきますね。独立してフリーランスになったあと、独立元の会社とどう付き合っていくかは、そのひとのキャリアを大きく左右するんです。だから、会社はまっとうな形でやめなければならないし、やめたあともまっとうな関係を維持しなければならない。ちょっとばかしむちゃな依頼・頼みごとでも、それが独立元の会社からのお願いであれば、がまんしてひきうけるのがおとなってやつです。で、そのひとは、独立元であるその会社の翻訳の仕事を引き受けた。やすいだろうなあとかくごしていたら(おおくの場合原稿料は事前におしえてもらえません)、なんと、原稿料400字で500円だったというこわーい話(*たぶんフィクションですっ)。時給にすると100円とかそんなもんですよ。提出したあともゲラ読みとかいろいろありますし。ひどいでしょ。信じられない。うちだったらぜったい、その倍は出してあげますよっ!
ぺしぺしのぺし。
スポーツライターで生活? いやあ、えっ、まじで? あっはっは。ってわらっちゃいけないですね。まあ、おすすめしませんよ。そうとう名前のしれた人でさえ、旦那さんか奥さんがかわりに稼いでくれているというのが現状ですからね。あとは、実家が資産家だったりとか。まあ、愛里ちゃんみたいなひともいるけど、われわれからみると、いや、頭おかしいんじゃないかと。……あ、ごめん。ちょっ、つっつかないでよ。えっ、「ちゃん」をつけるな? きもい? ごめんごめん。じゃあ、えーと、愛里……。あ、うそ、まじでうそ。いたたたっ。さんっ。愛里さんっ。
ぺしぺしー。
そうですね。じっさいに稼いでいる方も、ごく少数ながらいるわけで、はい。夢のあるたいせつな仕事であるのはまちがいないですし。ライターさんにはほんとがんばってほしいなと。ひつような能力ですか? うーん、そうですねえ。はあ、文章力? いや、とくに必要ないと思いますけど。わりと有名な人でも、原稿見たとたん「無理」とか思うことありますからね。編集部のほうでまるまる書き直しちゃうことも多いです。原稿料よこせって思いますよ。あんまりひどいときは、これ「原稿」じゃなくて「素材」だよなあって(*ぜったいにフィクションですっ)。
それよりも取材力ですよ、取材の力。のし上がるうえでてっとりばやい方法はですね、ふたつやり方があると思うんですよ。はりつきです、はりつき。ひとつは、有名選手にはりつく。もうひとつはメーカーにはりつく――。

ここで猫さんが話をさえぎる。
「ストップ。これいじょうはキケンです」
愛里はくびをかしげる。「きけん?」
江戸川さんもしっぽをひねる。ぺしぺしー?
この話はこの物語にはそぐわないと思うですにゃ。物語というのは、その根底に流れる声がゆらがないかぎり、どれほどとっぴな展開でも、なんとかなるです。こんかいの話は、その根幹をゆるがしかねない。ここでやめておくべきだと思う。
いやそれちいさくして転送する前に言ってよ、と江戸川さんが抗議しようとしたとき。

ぱち、ぱち、ぱち。
ゆっくりと打ち鳴らされる、拍手。
物語とげんじつをさえぎるうすい膜を、ひとりの男がくぐりぬけてくる。
長身、すらっと伸びた長い足。鋭い目。波打つ長髪。黒く染めた赤褐色の毛。口元には、皮肉な笑み。
江戸川さんはのけぞる。
学生のころ、『パブ・大英帝国の社交場 』という本を読んだときにこころに抱いた、英国パブの店主ってこんな感じだろうなあ、という勝手なイメージ。
そんな江戸川さんのイメージにぴったりの男だったからだ。
「どの職業でも同じことです」男は言う。「きちんとした方がいて、きちんとしていない方がいて。まっとうな努力をする方がいて、まっとうでない努力にはげむ方がいて。誠実に仕事をすれば評価されるわけでもないし、さぼっている方が出世することもある。評価されるべき方が日の目を見なかったり、有名で人気者のあのひとがとんでもないうつけであったり。それについて語るのも『おもしろさ』の一種ですが、この物語にはそぐわないかもしれませんね。じっさいにライターとして活躍されている方が、不快に感じる可能性もありますし」
ここで男は両手の指の腹をあわせ、口もとに三角形を描く。
「申しおくれました。わたくし、このパブの店主、ジョニー・カンバーバッチと申します」
パブの店主キター!